
「引揚者」という言葉を知っていますか?敗戦まで外地に住み、戦後日本に引き揚げた民間人のことだ。その数は、現在、海外に在留する日本人をはるかにしのぐ。加藤先生は引揚者の問題を、膨大な資料と当事者からの聴き取りによって明らかにしてきた。そこにある問題は、私たちとどんな繋がりがあるのか、お話をうかがった。
私は日本の近現代史、とくに大日本帝国が支配していた植民地からの「引揚者」について研究をしています。しかし、引揚者と言っても、ピンとこないかもしれませんね。引揚者とは、1945年の敗戦によって生活のよりどころを失って「外地」や日中戦争から太平洋戦争にかけて拡大した占領地から本土に引き揚げてきた民間日本人を指します。
「外地」とは、満洲、朝鮮、台湾、南洋諸島、樺太など大日本帝国が日清・日露戦争以降に拡大した植民地のことです。第2次世界大戦に負けるまで、そこには多くの日本人が住んでいました。
役人や会社員のような転勤族のほか、現地で商売をしていた人たちで、主に都市に住み、日本よりも豊かな生活をしていました。それとは別に、移民として渡ってきた人たちもいました。なかでも日本の傀儡国家であった満洲国には国の政策として大量の移民が送られていました。「開拓団員」と呼ばれた彼らの多くは貧しい農民でした。貧困対策の一環として国が満洲へ送ったのですが、都市に住む日本人とは生活レベルが異なっていました。

こうした外地の日本人は、敗戦から1年ほどで日本に帰還します。当時、外地にいた日本人の正確な数は把握されていませんが、実質的には戦後に帰還した引揚者の数から、300万人を超すと考えられます。おおよその内訳は、満洲に127万人、満洲を除いた中国本土に49万人、台湾に33万人、朝鮮半島に72万人 、樺太(現ロシアのサハリン)に39万人。国際化が進んだ現在でも、海外に在留する日本人は129万人*ほどですから、いかに外地の日本人が多かったかわかるでしょう。
*出典:外務省領事局政策課「海外在留邦人数調査統計」2024年10月1日現在
https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100781392.pdf
敗戦から1年以内に引き揚げることができたのですが、それはアジアから日本の影響力を一刻も早く除去したいと考えたアメリカが積極的に関与したために実現しただけです。しかし、その一方でソ連軍の攻撃にさらされた満洲や北朝鮮では、戦闘に巻き込まれたり、難民化してから疫病や栄養失調で倒れたりする人が激増し、引揚が実施されるまでに30万人以上の犠牲者を生んだとみられています。さらに、さまざまな理由から帰国できなかった女性や子どもは「残留婦人」「残留孤児」となり、のちに日本政府が把握した数だけでも3万人近くにのぼります。こうした引揚による犠牲者は、広島の原爆犠牲者14万人、沖縄戦の9万4000人、東京大空襲の10万人などに比べてやはり圧倒的に多く、戦争の大きな犠牲者といえます。
引揚者のなかでも、とくに開拓団は生活基盤を捨てて移住したため、帰国後は住まいも仕事もなく、生活苦やいわれのない差別に苦しみます。中国残留婦人や孤児たちも、1972年の日中国交正常化以降、ようやく希望者の帰国がかなったものの、やはり言葉や文化の壁で苦労をします。ところが、そうした問題はあまり注目されてきませんでした。
私自身、大学では日本外交史を研究していましたが、引揚者に興味を持ったのは大学院に進んでから。総理府(当時)の「平和祈念事業特別基金」*のアルバイトをするようになり、引揚者やシベリア抑留者と直接の関わるようになったのがきっかけです。
*平和祈念事業特別基金:「平和祈念事業特別基金等に関する法律」に基づき、「いわゆる恩給欠格者、戦後強制抑留者、引揚者等の関係者の労苦について、国民の理解を深めること等により関係者に対し、慰籍の念を示す事業を行うこと」を目的として、昭和63(1988)年に設立。平成15年からは、総務省所管の独立行政法人となり、慰労品の贈呈事業及び啓発広報活動等の慰藉事業を平成22年9月末まで実施した。その後、戦後強制抑留者の方に特別給付金を支給する事業を平成24年3月末まで実施し、平成25年に解散。
当時すでに戦後50年が経ち、苦労をした人たちもそれなりに社会的地位を築いて普通に暮らしている印象がありました。しかし、引揚者に話を聞くと、戦後もずっと苦労している方が少なくなかった。その理由を知りたいと社会的背景を調べ始めましたが、ノンフィクションや体験談はあるものの、学術研究はもちろん、資料もほとんどなく、ゼロから研究することになったのです。
調べるうちに見えてきたのは、引揚者問題が長らくタブー視されてきたことです。戦後、日本の帝国主義支配が東アジア諸国へ与えた問題については盛んに研究されてきました。しかし、引揚者は支配階級ではないものの外地にいた日本人で、現地人に対して優遇されていましたから、あまり触れたくない話だったのです。

植民地や占領地に暮らしていた300万人を超える民間人の引き揚げについて、内外の一次資料を用いて国内と国際政治要因からの分析と、引揚者の手記や聴き取り調査などをもとに、戦後社会と引揚者との関係の解明との両面から、海外引揚の全容を一般向けにまとめた書。第43回角川源義賞受賞。
また、敗戦時の特殊な事情もありました。一般的に、植民地を持っていた国は、独立運動に直面するなかで植民地をいかに維持するかで世論も紛糾します。また、植民地からの引揚者を本国社会が受け入れることに対する軋轢も起こります。フランスなどはその典型的なケースです。しかし、日本は敗戦によって一夜で植民地を失いましたので、植民地支配の後始末に苦しむことも、功罪について議論することもなかったのです。
結局、1945年8月15日の敗戦を境に、植民地喪失の痛みを味わうことのないまま「大日本帝国」の記憶に繋がる引揚者も植民地も‟なかったもの”として、「日本国」にスパッと切り替わりました。大日本帝国時代には多様な民族・地域が関わりあい行き来していましたが、そのような歴史を切り捨ててしまったのです。しかし、大日本帝国の歴史を体現する引揚者や旧植民地の人たちの意識は簡単には変わりません。日本国内にいた日本人と彼らとの意識の間に生じた大きなずれが、いまだに補償問題などでも軋み続けているのです。
じつは、大日本帝国の歴史を背負いながら戦後に活躍した方はたくさんいます。たとえば、国民的ヒーローだったプロレスラーの力道山さんは朝鮮人、国民栄誉賞第1号の王貞治さんの父親は中国出身、昭和の大横綱大鵬さんの父親はロシア革命で樺太に逃れてきたウクライナ人です。映画監督の山田洋次さんは大連、漫画家のちばてつやさんは満洲、小売業のニトリの創業者である似鳥昭雄さんは樺太からの引揚者です。
成功者は「日本人」とされる一方で、戦前は‟帝国臣民”として日本兵として戦った朝鮮や台湾の人たちに対する恩給も、被爆した韓国人への補償も、戦後は‟外国人”として切り捨てました。
戦後の日本社会では、このような歴史がほとんど知られていません。そのことが、近隣諸国とのコミュニケーションを難しくしています。
また、引揚者の問題は、現在起きている難民問題にも繋がります。戦争で民間人が受ける被害は世界共通です。ある国が他国を占領すれば、その土地に住んでいた人たちは追い出されて難民化し、行き着いた先でも差別や生活難に苦しむ。つまり、ウクライナやガザで起きていることはヨーロッパや中東だけの話ではなく、日本も経験していることなのです。
こうしたときに起きる差別は、国籍や民族といった人種問題だと思うかもしれません。でも、その本質は文化の違いによる摩擦です。残留孤児への差別も、同じ日本人なのに言葉や文化が中国人である違和感が大きな理由でしょう。異質なものを拒絶するのは人間の防衛本能だからしかたがありません。でも、それは突き詰めれば無知から来るものです。知らないから怖いのです。逆に相手の生活習慣や価値観を知れば怖くないし、もっと打ち解けられると思います。
戦後、引揚者たちは地域や職場や学校ごとに親睦会を作って自分たちの歴史を伝えようと活発な活動をしてきました。しかし、そうした活動が盛んだったのは引揚が始まってから60年目にあたる2006年までです。しかし10年後の70年目になると、引揚者の多くは80代を過ぎ、親睦会の解散が続きました。今では親睦会もほとんど残っていません。私に壮絶な体験を語ってくださった人たちも、一人またひとりと鬼籍に入っています。
多くの引揚者から直接体験を聞くことができた私は、幸運な時期に研究を始められたのだと思っています。
引揚者が激減する一方で、新たな機会に恵まれることになりました。2017年に厚生労働省が戦争体験を後世に引き継ぐ「語り部育成事業」を立ち上げ、私も中国残留日本人の語り部育成事業のアドバイザーを務めることになりました。敗戦後に引き揚げることもできずに中国に取り残された人びとから体験を聞いて、それを伝えていく事業です。
しかし、この事業は想像以上に大変なことでした。マニュアルもない手探り状態から始めたのですが、語り部の候補者は一般の方ですから、伝えたいという思いはあっても何の予備知識もない。歴史はもちろん、人前で話すスキルまで教えなければなりませんでした。
そして、何より大変だったのは、残留日本人の体験を共有することでした。日本人なのに言葉も文化も中国人なのはなぜ? なぜ日本人が満洲にいたの? なぜ戦後も中国に残留したの? さらにそれらの歴史的背景―大日本帝国の拡大の歴史、さらには、戦後の中国で起きた激動の歴史を理解した上で、その人が語る体験を理解し、人前で語るわけですから一筋縄ではいきません。
この語り部育成事業は今も続いていますが、これ以外にもまだまだやるべきことがあると思っています。その一つが、学校の授業などを通じて関心や理解を深めることです。自国の近現代史をもっと学ぶと同時に、近隣国の文化や歴史を学ぶ機会もつくる。私が住む横浜も外国人が多いのですが、国籍の違う同級生と日々生活していると、子どもたちの異文化への拒絶は少なくなります。今は多様性や国際化が盛んに言われていますが、英語さえできれば国際化が進むわけじゃないんです。それよりも日常生活で外国に触れる機会を少しでも増やすことの方が大切です。たとえば、外国の料理を食べることでもいいのです。
さらに、私自身も教える側の人材を育てていきたい。教員をめざす学生に対して、近現代史や国際文化を教えられれば、彼らがそれを教育現場で実践できる。そうした人材を世の中に出していくのも、私の一つの役割だと思います。
歴史とは現代との対話です。今の社会を考えるためにも歴史を学ぶ必要がある。そして、それを踏まえて、よりよい世界をめざしていくのが私たちに託された責任といえます。
