トヨタ紡織株式会社 糟谷 悟 さん
病気を乗り越えて競技復帰を果たし、現在もランナーとして活躍中の糟谷さんに、これまでの軌跡と現役学生へのメッセージなどを伺いました。
中学の時は、もともとバスケットボール部に入ってたんですよ。それが、学校の体育祭で1500m走ったら成績が良かったので、陸上部から「助っ人で出てくれ」と言われたのが最初です。その後もバスケをやりながら、時々陸上部にレンタルされる形だったのですが、気がついたら、いつの間にか完全に陸上部のみとなっていました。
駒澤大学へ進学したのは、1つは駅伝が全国レベルの強いチームだったこと。もう1つは、高校の2年上の先輩が駒大で活躍していたことです。先輩から「また一緒に頑張ろうよ」と直接声を掛けられて。僕が高校の時に強くなれたのはその先輩のおかげだったので、その言葉で心が決まりましたね。
たまに行くラーメン屋巡りは楽しみでしたが(笑)、ほぼ陸上一色の生活でした。4年生の時は陸上に集中したかったので、3年生までに卒業に必要な単位は全部取れるよう、真面目に授業にも出ていましたし、寮の門限もほとんど破ってないんですよ(笑)。他にしたいことは色々ありましたけど、犠牲というより優先順位を考えて行動を選択していました。でもそれは他の部員も同じで、皆、競技に対する意識が非常に高かったんです。
学生時代、一番嬉しかったのは1年目で箱根を走る選手に選ばれたこと。逆に一番悔しかったのが、4年生の時に僕のせいで箱根の連覇が途切れてしまったこと。その時に考え方がさらにストイックになりました。当時は必死でしたけど、今から見ると甘ちゃんだったと思います。それぐらい意識の変化が起きましたね。この最後のミスを繰り返さないように、どのように今後に活かしていくのか、自分の考え方の転換となる大きな出来事でした。
高校の時から既に夢として、実業団で走りたい、日の丸を付けたいという思いがありました。就職先にトヨタ紡織を選んだのは、高校、大学在学中とずっと声を掛けてくれていて、僕を必要としてくれるのはこの会社だと思ったから。愛知に帰るのは大前提でした。
身体の異変に早く気がつくことができたのは、陸上競技をやっていたおかげです。走っている時の感覚に違和感があって「これは普通じゃないな」と思いました。診断が出る前に自分の中で「たぶん重たい病気だな」と分かっていたので、最終的に医者から悪性リンパ腫と告げられた時は、落ち込むというより「ほらね」という感じでした。むしろ、親戚ががんで亡くなった直後だったので、自分のことより家族や周囲の方が心配でしたね。
それに、段階ごとに何個も目標を立てていくという、陸上で培った考え方が身に付いていたので、「原因は分かった。じゃあ、次はそれを治すために闘っていくだけだ」と早い段階で気持ちを切り替えることができました。
もともと競技を辞めるという考えはなかったし、「できなくなる」と言われようが、自分で試さないと分からないと思っていたので、すぐに復帰プランを考えていました。
病気して、復帰して、様々な仕事や機会をいただいて感じたのは、日頃からアンテナを張って準備して行動することの大切さでした。チャンスはいつ巡ってくるか分からない。そのチャンスがきた時に、それにいかに対応できるか。そういう下準備を日頃から考えて行動していれば、どんなことがあっても自分のプラスになり、結果的に人生を楽しむことができると思います。皆さんには、チャンスがきた時に、いつでも行動できるよう、常にアンテナを張っていてもらいたいですね。
※ 本インタビューは『学園通信332号』(2018年4月発行)に掲載しています。掲載内容は発行当時のものです。